中世を騒がせた王妃アリエノール・ダキテーヌ①

  • 2024/10/20
  • 歴史

今回は中世ヨーロッパの歴史を騒がせた王妃、アリエノール・ダキテーヌについて語っていきます。
アリエノール・ダキテーヌという王妃の名前は知らなくとも、「ライオンハート」こと獅子心王リチャード1世についてはみなさん、ご存知のことでしょう。アリエノールは彼の母です。

今回のタイムライン

1137年~1204年までにフランスを中心に欧州に起った出来事を語っていきます。

フランス王妃時代

王太子ルイ7との結婚

アリエノール・ダキテーヌは南フランスの広大な領土を持つ、アキテーヌの領主ポワティエ家の相続人でした。アキテーヌ公ギョーム10世の長女として生まれ、父のギョームが巡礼の道中で体調を崩し、そのまま亡くなってしまったためわずか14歳で領主となりました。ギョームには息子がいたのですが、庶子でした。キリスト教圏では庶子に家督を継がせることは認められていなかったため、嫡子であるアリエノールが相続人となったのです。

カペー朝の系譜とルイ7世
ルイ7世 出典:meisterdrucke.com

花婿の王太子ルイはフランス国王ルイ6世の次男で、祈りと勉学に身を捧げる僧侶の一生 を送る予定だった少年でした。王太子の兄が夭折したため、ある日突然、国を担う立場に置かれました。

結婚当時のアリエノール(イメージ)
出典:amazon.com.au

1137年、ルイとアリエノールの結婚式が行われました。この結婚は臨終間近のフランス国王ルイ6世が切望したものでした。
当時のフランス王家の領土はパリを含むイル・ド・フランス周辺のみで大諸侯のそれより少なく、内乱でも起これば王権を奪われる危険が常につきまとっていました。それに引き換え、アキテーヌ領はフランスの国土の半分近くを占め、貿易で富を蓄え、その富で抱える頼もしい軍隊も持っていました。王家としては、なんとかしてこの大貴族を味方に引き込む必要があったわけです。

当時のフランス

アリエノールは美しさに加え、才気と自信に溢れ、南フランスの陽光を受けきらきらと輝いていました。2つ年上の王太子ルイでしたが、彼女を一目見るなり夢中になり、「こんな美しい人を妻にできるなんて、国王というものも悪くないな」と思うのでした。結婚式の後、フランス国王は崩御し、ルイはルイ7世として即位しました。親同士 が決めた結婚ではありましたが、若い夫婦の仲は睦まじいものでした。

語り合うアリエノールとルイ(イメージ図)
出典:https://olivialongueville.com/

ルイ7世贖罪への道

1143年、ポワトーからの独立を訴え反乱を起こしたシャンパーニュの町、ヴィトリ・アン・ペルトワが国王軍によって焼き払われる悲劇に見舞われました。この町は王妃アリエノールの祖父が愛した町でした。ルイは王太子は僧侶を目指したほど信心深い国王でしたが、反抗を許さないアリエノールに同調して町を焼き払うという暴挙に出ました。

かつてヴィトリ・アン・ペルトワのあった現在のマルヌ県
出典: GREATER de FRANCE

幼い頃からルイを支えてきた聖職者たちは国王の暴挙にひどく驚き、そのうち美しい王妃が国王に強い影響力を持っていることを知り、王妃に反感を持つようになります。
修道院で育ったルイにとって、アリエノールは初恋の相手であり、頼りになる友人であり、愛して止まない魅力的な妻でした。彼は身も心も王妃に支配されていたのです。
しかし、事が収まるとルイは我に返り、今度は激しい自責の念に苦しみ、さんざん苦しんだ末、ルイは贖罪として尊敬するスュジェ修道院長が手掛けるサン・ドニ大修道院の改修をサポートし、最終的に第二回十字軍遠征への参加を決めます。

第二回十字軍遠征の失敗

第二回十字軍
出典:Wikipedia, the free encyclopedia

こうしてルイとアリエノール、そしてフランス軍は、1144年第二回十字軍遠征に旅立ちました。
荷馬車の数が膨大で、移動に多くの時間と労力を費やし、コンスタンチノープルに着いた頃には出発から5か月も経ってしまっていました。同じく十字軍遠征に参加した神聖ローマ帝国皇帝のコンラート3世軍に大きく遅れを取ることになってしまいましたが、実のところ、コンラート3世はフランス軍と連携する気はさらさらなく、さらに進軍の途中罠にはまり、トルコ軍のゲリラ攻撃を受けて悲惨な目に遭ってしまいます。

コンスタンチノープル
出典:knights TEMPLAR

焦る国王とは裏腹にアリエノールはエルサレムに行く途中で立ち寄ったコンスタンティノープルの都やアンティオキア国の異国情緒を堪能し、聖地奪還のことなど忘れたかのように過ごしていました。彼女にとって十字軍遠征は巡礼ではなく、地味でつまらないパリでの暮らしからの逃避行であり、神秘的な東方文化とのふれあいの旅であったのです。
アンティオキア公国では、公爵となっている同郷の叔父レイモンとすっかり意気投合し、十字軍を進めるにあたってルイとレイモンの意見が対立した時にはレイモン側に立ち、叔父と姪の不倫疑惑に発展しました。

王と王妃の亀裂はそのままフランス軍内部に反映し、軍の統率は崩れ、トルコ軍のゲリラ攻撃を受け第二回十字軍遠征は失敗に終わるのでした。

ルイ7世との離婚

illust AC

アリエノールとルイの価値観の違いは結婚当初からありました。ただ、離婚するにはルイは妻を愛しすぎていたし、アリエノールにしても、自分の広大な領土を守るためにフランス王妃という地位が必要でした。これが夫婦間の亀裂をかろうじて保っていたのですが、異文化に接することで抑えていた感情があふれ、ついに表面化してしまったのです。

アリエノールの残した有名な言葉にフレーズがあります。

「王と結婚したと思ったら、僧侶だった」

1152年3月、オルレアン近郊の城で宗教会議が開催され、ルイ7世とアリエノール王妃の離婚が裁可されました。離婚の表向きの理由は、王と王妃が近い血縁であったことと跡継ぎの王子が生まれなかったことでした。
この時期、代々から続く領地や権限を守るため、血族間で婚姻を結ぶことが多く、気が付かないうちに近親婚をしていることがありましたが、教会が認めれば結婚生活を続けることができたのです。逆に教会が認めなければ、結婚を無効化できたのです。

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