中世を騒がせた王妃アリエノール・ダキテーヌ④
「中世を騒がせた王妃アリエノール・ダキテーヌ」いよいよ今回が最終章となります。
前回の記事では、アリエノールの4人の息子のうち、生き残った次男リチャードが王位を継ぐことになりました。晴れて自由の身となったアリエノールですが、争いの火種がこれで消えたわけではありませんでした。
目次
これまでのストーリー
第三回十字軍遠征
シチリアの夏
1191年まばゆい陽光がダイヤモンドのように碧い地中海に降り注ぐ夏、69才に達していたアリエノールはシチリアにいました。70才近い老女にとって、陸路は馬か徒歩、海路はガレー船というこの時代の旅は過酷なものでした。しかし、この時のアリエノールにとって、肉体の疲れは二の次でした。
「なんとしてもリチャードに追いついて私が決めた花嫁と添ってもらわねば!」
リチャード1世はこの1年前に十字軍遠征に参加し、エルサレムに向けて出発していました。彼の政治基盤を固めるためには、有力な近隣諸国の王女との結婚、そして世継ぎの確保が必要でした。そこでアリエノールが推した花嫁はナバラ王女ベレンガリアでした。
しかしリチャードには長年の婚約者であるフランス王の姉、アデレードがいました。実はリチャードとアデレードの結婚は遠征からの帰還後に行われる予定でした。しかし、英仏が対立するようになり、フランス王女との結婚はメリットが感じられなくなっていたのです。
アリエノールとベレンガリアはシチリアでリチャードと合流し、その後、リチャードとベレンガリアはキプロスで式を挙げました。これを見届けたアリエノールはフランスに戻ります。
十字軍遠征の背景
リチャードは1189年にイングランド王に即位するとすぐに十字軍遠征の準備に取り掛かりました。本来なら長らく親子戦争で荒れた国内をまとめるのが先決ですが、エルサレムがサラディンに征服され、父王ヘンリーの時代から現地の諸侯たちから度々救援要請を受けていたというのと、国内の不満を外に向ける狙いがありました。また、リチャード自身が熱心なキリスト教徒だったことも大きな要因です。
リチャードの奮闘
この時期、アイユーブ朝スルタン、サラディーンがエルサレムを奪還していました。常に聖戦に命を捧げてきたテンプル騎士団を始めとするキリスト教徒の兵士たちは絶望的な抵抗を続けていましたが、獅子心王リチャードが鬼神のごとく駆け付け、見事な采配をふるい、アクレの城塞包囲に続くアッコン包囲戦でサラディンを追い込み、十字軍は攻勢に転じました。
仲間割れによる幕引き
こうして優勢となった十字軍はキリスト教圏の連合軍でしたが、結びつきは危ういものでした。
まず、この遠征に西側から参加した、赤髭バルバロッサの異名を持つ神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世が遠征の途中で溺死してしまいます。そして、フランス王フィリップ2世がアッコン包囲戦後、早々に帰国してしまいました。彼はもともと現実的な為政者で、十字軍遠征がフランスにとって利益がないことを見抜いていました。また、この遠征中に何かとリチャードに主導権を奪われてきたオーストリア公レオポルド5世もリチャードに恨みを持ち、このタイミングで引き上げを決めます。
たった一人でサラディンに対戦することとなったリチャードですが、勇猛果敢に戦います。しかし、戦況は膠着し、イングランドから国に残っていた弟ジョンが王位簒奪を企てていることが伝わったため、急ぎ休戦条約を結び、1192年の秋、帰国に着きます。こうして1190年に輝かしくスタートを切ったリチャードの十字軍遠征はわずか2年で幕を閉じるのでした。
英雄サラディン
アイユーブ朝の創始者で本名はサラーフ=アッディーン。シリアの武将の息子で、軍事の才に長けており、若い頃にエジプトの宰相となり、後にシリアも併合して名実ともにアイユーブ朝のスルタンとなります。
イスラム神学に深く、軍事に強いだけでなく、中世において稀に見る英邁な君主として西洋社会でも有名です。彼は人格者で有名でエルサレムを開城するにあたって十字軍側の人質を身代金なしで解放し、敵将のリチャード2世が病に伏せた時には見舞いを送っています。
獅子心王の受難とプランタジネット朝の黄昏
リチャードの捕囚
ジョンの陰謀にはフィリップ2世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世(赤髭バルバロッサの息子)が関わっていました。これを知ったリチャードはイングランドへの帰路を急ぎぐのですが、アドリア海で遭難し、オーストリア伯領地の沿岸に打ち上げられてしまいます。
オーストリアは遠征中の恨みを忘れないレオポルド5世の領地であり、リチャード一行は敵地に流れ着いたことになります。命からがら内陸に向かうリチャードでしたが、ウィーンの田舎町で遂にレオポルド5世に逮捕されてしまいます。
リチャードはもちろんのこと、行動を共にしてきた随員たちも変装して日々を過ごしていました。
しかし、農民にしては身なりや品が良く、使う金も庶民のそれとはかけ離れていたため、すぐに身元がばれてしまったのです。レオポルト5世は嬉々としてリチャードを捕らえ、山頂の牢獄、デュルンシュタイン城に彼を閉じ込めました。
過酷な代償
アリエノールがリチャードの窮状に気が付いたのは1191年の暮れでした。アリエノールは普段から情報網を張り巡らしていたため、先に戻ったフランス軍から情報を入手することができました。
それによると、サラディンと休戦条約を結んだリチャードがキリスト教圏の裏切り者にされているばかりか、末息子ジョンがフランス王と神聖ローマ皇帝と組んでイングランド王位を簒奪しようと画策していました。アリエノールは急ぎイングランドに渡り、諸侯を集めて演説を行い、彼女の演説で目が覚めた諸侯たちはジョンではなく、アリエノールに忠誠を誓います。
その後、リチャードはレオポルド5世から皇帝ハインリヒ6世に渡され、一旦は客人として扱われるものの、その後は政治犯が入る牢獄に入れられ、散々な捕囚生活を送っていました。しかし、彼の強靭な精神は衰えることを知らず、自身の救出と返り咲きを信じていました。
一方アリエノールは皇帝が提示した十万マルク銀貨というプランタジネット王朝を破産させるほどの莫大な身代金と200人の人質を集めるのに必死でした。なんとか身代金と人質をかき集めると、急ぎドイツに渡り、リチャードはようやく解放されます。
凍てつくドイツの白い冬、1194年の2月のことでした。
獅子心王を射る一本の矢
リチャードの解放のために支払われた巨額の身代金のため、プランタジネット朝の国庫は空っぽでした。そんなある日、アキテーヌ圏のリムーザンで古代の宝物が見つかったため、この地を治めるアイマール伯にすぐさま献上するよう求めました。これで空の国庫が潤います。しかし、思いがけずアイマール伯が抵抗したため、リチャードはリムーザン征伐に向かいます。
貧弱な守りに気を抜いたのか、鎧を脱ぎ歩いていたところを流れ矢に当たり、なんと、この傷が元で命を落としてしまうのでした。解放からたった5年後の1199年のことでした。
アリエノールは泣きました。体中の水分が出尽くすくらいに泣きました。4人の息子の中で一番愛した息子、常に心を共有してきた息子、国が傾くほどの代償を払って救った息子がこの世を去った。
なぜ神はこのように老いた身にいまさら耐え難い苦しみを与えるのか….。
フォントブローで閉じた82才の生涯
それまで衰え知らずだったアリエノールの活力は、この時を境に失われていきます。この後、ジョンがイングランド王となり、生来の傲慢さと度重なる愚行が元で多くの諸侯が離反しますが、これら離反した諸侯たちはフランス王に与し、フランス国内のプランタジネット朝の領土は次々にフィリップ2世に奪われていきました。
リチャードが心血注いで築いた要塞、シャトー・ガイヤールもフィリップに落とされてしまいますが、この時のアリエノールがこれらの悲報を正確に認識できたかどうかは不明です。なぜなら、リチャードを失ってからというもの、アリエノールから一切の活力を失っていたからです。
そして1204年、アリエノールは故郷に近いフォントブローの修道院で82年の波瀾万丈の生涯を閉じました。
その後の展開
アリエノールの亡き後、ジョン王は愚策と愚行を重ね、ローマ教皇からは破門され、フランス領土の大半をフィリップ2世に奪われていきます。我慢の限界に来たイングランドの家臣たちは、遂に市民とともにジョン王に反乱を起こしました。
ジョン王は和解を図り、1215年に「国王の徴税権の制限」「教会の自由」「都市の自由」「不当な逮捕の禁止」を定めた大憲章(マグナ・カルタ)が制定されました。大憲章は現在のイギリス議会の基礎になっています。
ジョン王はこの1年後病死しますが、プランタジネット朝は絶えることはなく、エドワード3世とその息子エドワード黒太子の時代には転機を迎え、フィリップ2世の時代に奪われたフランスの領土を取り戻していきます。
参考にしたメディア・書籍