ノルマン=コンクエスト

フランス史
ノルマン人の画像 出典:Wikimedia Commons

「大英帝国の歴史は、カエサルがブリタニアに上陸したときにはじまる」 これはウィストン・チャーチルが語った言葉ですが、イングランドの歴史はいつも海からやってきます。フランク王国で王朝の交代があり、東方ではビザンツ帝国がセルジューク・トルコに圧迫されいた頃、ブリテン島では新たな歴史が始まっていました。

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中世イングランドといえば、アングロ・サクソン7王国だよね。

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で、この7王国で一番強い国が今のイギリスになったの?

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途中までそうだったんだけど、お互い競っている間に火事場泥棒よろしくノルマンディ公のギョーム2世に征服されてしまうんだよね。

今回のタイムライン

本ブログはフランスの歴史をテーマにしていますが、今回はフランスの歴史に大きな影響を及ぼすことになる、927年~1066年までにイングランドに起った出来事を語っていきます。

デーン人襲来による7王国の終焉

出典 Saurabh Sharma from Pixabay

409年ローマ軍が当時ブリタニアと呼ばれていたイングランドから引き上げた後、ゲルマン民族によって大小多くの国が建てられました。そのうち強い国が小さな国を吸収し、7つの王国が残りました。ノーサンブリア王国、マーシア王国、イースト・アングリア王国、エセックス王国、ウェセックス王国、ケント王国、サセックス王国が7つの王国です。これらの王国はヘプターキー、Heptarchyと呼ばれていました。

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Heptarchyはもとはギリシア語でheptは7を、archyが国を意味してるんだよ。

9世紀になると地球は暖かくなり、スカンジナビア半島のノルマン人たちが海を渡って欧州大陸に渡り、辿り着いた沿岸で略奪を行うようになります。イングランドには、北方系ゲルマン人のデーン人が侵略を行っていました。それは次第にエスカレートし、7王国は次第に浸食されていきます。

アルフレッド大王 123RF lisenced

この頃、ブリテン島ではウェセックス王国が力を持ち、初代ウェセックス国王エグバードの時代には7王国の中のリーダー的存在になっていました。6代目アルフレッド大王はデーン人を撃退し、キリスト教と文芸を復興させ、アルフレッド大王の孫であるアゼルスタンはブリテン島のイングランド化を推し進め、927年イングランドを再統一します。

北海帝国 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ところが10世紀に入ると、デーン人は再びブリテン島に迫り、デーンゲルドと呼ばれる立ち退き料をもらうことで引き上げ、これを繰り返していました。デーン人の国スウェーデン国王クヌートはデーンゲルドだけでは満足できず、遂に1016年イングランドを征服し、ウェセックス王朝に代わってイングランド王となってしまいます。クヌートはさらにデンマークとノルウェーもその支配下に置き、3王国からなる北海帝国を築き上げます。

デーン人とウェセックス朝のイングランド共同統治

エドワード懺悔王 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

飛ぶ鳥落とす北海帝国でしたが、1035年クヌートが亡くなると急速に勢力を失っていきます。クヌートの治世にイングランドからフランスに亡命していたウェセックス朝王子のエドワードはクヌートの息子ハーディクヌートと条約を結び、イングランドの共同統治を始めます。
ところがこのその2年後、ハーディクヌートが亡くなったため、エドワードは戦わずしてイングランド国王となります。

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ちなみに彼の二つ名はエドワード懺悔王。

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懺悔って何か悪いことしたの?

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英語ではEdward the Confessorなんだけど、別に何か悪いことをして懺悔をしたわけではなく、さまざまな困難に負けずキリストへの信仰を証明したという意味でのConfessor=信仰の証明者なんだよ。ウェストミンスター寺院はこの人が建てたしね。

イングランド国王となったエドワード懺悔王でしたが、幼少の頃からフランスのノルマンディー公国に亡命していたため、母国のイングランドよりノルマンディーに住むノルマン人たちとの結びつきが強く、即位してから多くのノルマン人たちを呼び寄せ重用しました。このことがそれまでイングランドを支えていた、伯と呼ばれる貴族たちの反感を買い、特に大貴族ウェセックス伯ゴドウィンはエドワード懺悔王と対立するようになっていました。

イングランド王位を巡る3つ巴の戦い

左:ギョーム2世 中:ゴドウィン 右:ハーラル3世 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(左:ギョーム2世 中:ハロルド・ゴドウィン 右:ハーラル3世)
1066年、エドワード懺悔王が世継ぎを残さずにこの世を去ると、王位を巡ってフランスからノルマンディ公ギョーム2世、イングランドからはウェセックス伯ハロルド・ゴドウィン、ノルウェーからハーラル3世が名乗りを上げ、3つ巴の戦いが始まります。

エドワード懺悔王が亡くなると、ハロルド・ゴドウィンが賢人会議で承認されイングランド王として即位します。ハロルドの祖父はサセックス王の家臣で、功を建てることによってウェセックス伯に取り立てられていました。ハロルドが伯を継ぐ頃には並びなきイングランドの大貴族として権勢を誇っていました。大貴族とはいえ、アルフレッド大王やアゼルスタンの血統を継いでいないハロルドが王位につけた理由は、エドワード懺悔王のノルマン人びいきで不利益を被っていたアングロ・サクソン古来の貴族たちの支持があったからです。

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賢人会議って何?

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ローマでいうところの元老院にあたるもので、7王国時代にウェセックス王国でアゼルスタンの時代にできたんだよ。以降、国の大事はこの賢人会議で決めていったんだ。

ギョーム2世がイングランド王位を主張する理由はこうでした。エドワード懺悔王は幼少の頃、デーン人に国を追われ、ノルマンディ公国に亡命していました。ノルマンディ公とエドワードの結びつきは強く、エドワードは生前、ギョームに時期イングランド国王を約束していたのです。

ハーラル3世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

一方、ハーラル3世の主張はこうでした。先々代のイングランド王ハーディクヌーズとノルウェー王との間で結ばれた王位を決める協定があり、それはどちらかの王が先に死んだ場合、残った王が両国の王を兼ねるというものでした。ゆえにエドワード懺悔王が亡くなった今、ノルウェー国王の自分がイングランド王位を兼ねる権利があるというわけです。

スタンフォード・ブリッジの戦い、デーン人の幕引き

スタンフォード・ブリッジの戦い ペーテル・アルボ・ニコライ作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ハロルド・ゴドウィンには弟がいました。名をトスティ・ゴドウィンといい、彼はノーザンブリアを治めていました。1065年ノーザンブリアでトスティに対する反乱が起こますが、大貴族が力を持つことを危険視していたエドワード懺悔王はここぞとばかりに反乱側を支持し、トスティを国外に追いやります。ハロルドはトスティの実の兄でしたが、国王と対立する者は何であれ許すわけにいかず、彼が即位した後もこの対立は続きます。

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スタンドフォード・ブリッジってプレミアリーグの強豪クラブのホームスタジアムじゃなかっけ?

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ああ、チェルシーFCね。あれはロンドンにあるし、あっちの方はそこに流れていた川と橋の名前を取って付けたらしいから、ヨークのスタンドフォード・ブリッジとは違うんだよ。

時期を同じくしてノルウェー王ハーラル3世がハロルドから王位を奪うべく、大軍を率いてヨークを攻撃します。この時、フランドルに亡命していたトスティはハーラル3世側につき、1066年両者はヨーク郊外の村スタンドフォード・ブリッジにて対戦します。その結果、ハーラル3世とトスティはハロルドに敗れ、デーン軍勢はブリテン島から去っていきました。

ヘイスティングスの戦い、新しいイングランド

ノルウェー軍に大勝したハロルド王ででしたが、彼の勝利には大きな代償が伴いました。ノルウェー軍との戦闘で大きな損害を受けた上、ハーラル3世たちを追い出すためヨークにいたため、ギョーム2世が軍を率いてサセックス地方に上陸した時は防衛に手が回らなくなっていました。

『ヘイスティングズの戦いの後でハロルドの遺骸を見つけるエディス』(1827年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ギョーム2世はサセックス地方のヘイスティングスに砦を築き、周囲の村から食糧を略奪して兵站を補充し、十分な準備をした上で、1066年両軍はヘイスティングスにおいて対戦します。ハロルド軍は奮闘しましたが、力尽きて敗北し、ハロルドはここで戦死します。
圧倒的な勝利を得たギョーム2世はウイリアム1世として即位し、この時からノルマン朝が始まります。

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ふと思ったんだけど、ギョームはどうしてフランス貴族をやめてイングランド国王にならなかったんだろ。国王になったほうがフランス国王や神聖ローマ帝国皇帝と立場対等になるから有利じゃない?

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この時期のイングランドは辺境でそこの国王になったとしても欧州諸国と対等に渡り合えるような国ではなかったんだよね。ギョームからしたら、植民地のようなものだったと思うよ。
辺境の国王になって商業価値のあるノルマンディ地方を手放すほうがだいぶ不利だったんだ。

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イングランド=産業革命を起こした大英帝国のイメージがあるけど、最初は辺境の国だったんだね。

英国王室の系譜

ここでノルマン朝から現グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国の国王チャールズ3世までの王朝の系譜を辿っていきます。

ノルマン朝

1066年~1135年。
まずはギョーム2世がウィリアム1世として開いたノルマン朝。
ノルマン=コンクエストでイングランドを征服したものの、ノルマン人による中央集権的な政治はアングロ・サクソン諸侯たちの反感を買い、王権は戦と隣合わせでした。
ノルマン朝は直系の後継者が続かなかったことで短命に終わります。

プランタジネット朝

1054年~1399年。
ヘンリー1世の娘、マチルダとアンジュー伯ジョフロワの息子ヘンリー2世が開いたのがプランタジネット朝。かの有名なアリエノール・ダキテーヌと結婚し、獅子心王リチャードや失地王ジョン、百年戦争の火蓋を切ったエドワード3世とその息子エドワード黒太子など、個性の強い人物を輩出するのがこの王朝です。この王朝も直系の後継者が続かなかったことで短命に終わります。

ランカスター朝とヨーク朝

1399年~1471年。
フランスとの間に起った百年戦争の責任追及が原因で王家が二つに割れたのがこの時代で、エドワード3世の息子たちがそれぞれプランタジネット朝の傍流となって対立しました。ランカスター公の息子ヘンリー4世が始めた王朝がランカスター朝、ヨーク公の子孫たちが始めた王朝がヨーク朝です。両王朝は長らく対立していましたが、ランカスター朝のヘンリー7世がヨーク朝のエリザベスと結婚することで終着を迎えます。

チューダー朝

1485年~1603年。
ヘンリー7世の息子ヘンリー8世が始めたのがチューダー朝。ヘンリー8世は跡継ぎ男子ができないことで結婚と離婚を重ね、元妻たちを非業の死に追いやるというとんでもない国王でしが、その一方で英国国教会を開いてカトリックから独立し、イングランドを欧州諸国と肩を並べるまでに押し上げた名君でもあります。
娘のエリザベス1世、は当代きっての名君になり、姉のメアリーはスコットランド王に嫁ぎ、その血統は次の王朝に引き継がれていきます。

ステュアート朝

1603年~1714年。
スコットランド、イングランドが連合王国となった時代の王朝がステュアート朝でした。
この王朝時代は、王権絶対主義を貫くステュアート王家と議会が対立し、この対立が宗教の対立、民族の対立と重なり、ブリテン島各地で内乱(ピューリタン革命*ピューリタン:プロテスタントの総称)が起きます。ピューリタンでもあり、優れた軍人でもあったクロムエルが議会の支持を受け、次第に独裁政治を行うようになります。時勢に遅れたチャールズ1世は処刑され、イングランドはいったんここで共和制になりますが、10年後の1660年王制が復活し、チャールズ2世が後を継ぎます。ところがこの王朝も長くは続かず、ハノーヴァーから選帝侯を迎えて王朝をつなぐことになります。

ハノーヴァ朝

1714年~1901年。
跡継ぎがいないことで断絶したステュアート家の血筋を持つ、ハノーヴァ選帝侯を神聖ローマ帝国(当時のドイツ)から迎えて開始したのが、このハノーヴァ朝です。この王朝はヴィクトリアの時代に最盛期を迎えます。ヴィクトリア女王は立憲君主制を貫く一方で帝国主義を支持し、彼女の統治時代にイングランドは政治・経済のみならず、文化・技術面でも優れた成果を上げました。その反面、前王朝ステュアート家のジェームス2世の子孫を支持する勢力(ジャコバイト)が絶えず反乱を起こす不安定な時代でもありました。

サクス・コバーク・ゴーダ朝

1901年~1917年。
サクス・コバーグ・ゴーダ朝はヴィクトリア女王から続く王朝です。実はこの後に続く国王と女王はジョージ5世の直系になるので、サクス・コバーグ・ゴーダ朝は現代にまで続くのですが、第一次大戦中、ジョージ5世は敵国ドイツの領邦家の名前「ザクセン=コーブルク=ゴータ」がイングランド王朝の名前となることを嫌い、王宮の名にちなんでウィンザー朝と改名したため、エドワード8世からはウィンザー朝になります。

ウィンザー朝

1917年~現在。
ウィンザー朝の名前の由来は前述のとおり。
離婚歴のあるアメリカ人女性との結婚のために王位を弟に譲ったエドワード8世、第二次大戦中チャーチルとともにナチスからイングランドを守ったジョージ5世、そして英国民に愛され続けるエリザベス2世、現国王チャールズ3世がウィンザー朝を彩ります。

イングランド王朝の系譜参照先:英国王朝系図 – 新国立劇場

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カエサルのブリタニア遠征とデーン人の侵攻とフランス人のノルマン=コンクエストと外からブリテン島にやってきたことでイングランドの歴史が大きく変わったんだね。

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ただ、ブリテン島の人たちは強くて賢かったので、外部の支配を受けても議会を政治の中心するなど生殺与奪の主導権は自分たちの力で勝ち取っていくんだよ。すごいよね。
さて、このあたりで次からフランス史に戻るよ。