ガロ・ローマ 豊かな属州時代
カエサルのガリア遠征によって征服されたガリアは、ローマ文化をはぐくみつつ、ガリア独自の文化が花開き、長らく平和な時代を迎えます。ローマは共和制から帝政に変わり、カエサル亡き後の政争が続きましたが、ガリアの平和は続きました。
今回のタイムライン
紀元前51年~3~4世紀までにフランスに起こったことを説明します。
豊かなローマの属州時代
ガリアはローマ文化を取り込みながら、穀物やワイン、独創性のある高級土器や織物など次々と優れた産物を生み出し、豊かで魅力的な属州として栄えていきました。この時代をガリアに限定して言うならガロ・ローマ期、ローマ帝国全体を指して言うならパクス・ロマーナ (ローマの平和) と呼びます。
ローマは共和制から帝政へ
紀元前44年、皇帝を目指したカエサルが暗殺され、ローマではカエサルの甥のオクタビアヌスが跡を継ぎます。彼は叔父を殺した”ローマの共和制主義”を刺激しないよう、慎重に事を運び、徐々に自分の政治体制に変えていきました。そして、前27年に初代皇帝アウグストゥスとなり、以降、395年の東西分裂まで、77人の皇帝がローマを統治しました。
ガロ・ローマ時代の人々の暮らし
ローマの属州となったガリアの人々の暮らしは一体どのようなものだったのでしょう?
一口にガリアといっても地域によって呼び方が異なっていました。今のフランスにあたる地域はガリア・ルグドゥネンシスと呼ばれ、そこに住む人たちは長髪が多かったので、ガロ・コマタ(長髪のガリア)と呼ばれていました。
- ガリア・ベルギカ
フランス北部からベルギーの地域 - ガリア・ルグドゥネンシス
フランスの北部・中部の地域
(ガリア・コマタ) - ガリア・アクィタニア
フランスのアキテーヌ地域 - ガリア・ナルボネンシス
南フランスの地域 - ガリア・キサルピナ
アルプス山脈の南からルビコン川、アペニン山脈の北の地域
”属州”という言葉から、悲観的なイメージを持ちがちですが、ガロ・ローマの実態は違っていました。
ガリアの各地に本国に倣った州都や行政施設、公衆浴場や競技場、田園地帯の富裕層が住むウィッラ(農場と別荘を兼ね備えた広大な田舎屋敷)ができました。そこで人々は農地を耕し、水車を回して粉を引き、パンを焼いて市場で売り、川には橋を架け、町と町が交流していました。そして、仕事が終わると公共浴場で疲れを癒していたのです。
この頃のガロ・ローマの人々の暮らしぶりは、図鑑「絵で旅するローマ帝国のガリア」で見事に再現されています。
ガロ・ローマの足跡 ポン・デュ・ガール
ローマがガリアにもたらした恩恵の中でローマ人の技術と努力が光ったのは、水道建築でした。
フランスには、この時期造られた水道橋がニーム(フランス南部)に残っています。今でも残っている ポン・デュ・ガール(Pont du Gard ガール県の橋)が有名です。黄金色の石材と幾何学的なアーチ、夏の夜には幻想的なライトアップされ、ここを訪れる多くの観光客を魅了しています。
まず、山の水源から給水し、山地の地下にトンネルを掘ってそこに水道管を通して水を流したのです。山が平地になると、水道橋を作り、水道橋の最上階に水路を作り、山の地下から流れてくる水を通します。そしてこの水が都市の配水水槽に貯められ、そこから都市の貯水槽に運ばれました。
水源の取り水口からゴールの貯水槽までの水の輸送はすべて高低差を利用しました。この高低差は1kmあたり34cmというわずかな差でした。