華麗なる宮宰一族カロリング家
パリ勅令以降、フランク王国では宮宰の力が増していきますが、それととともに宮宰職を巡る権力争いが始まります。そこへ思いがけぬ敵が外から襲いかかってきました。外敵から王国を守り、権力闘争を勝ち抜いたのはカール・マルテルでした。
今回のタイムライン
629年~732年までにフランスに起ったことを語っていきます。
ピピン2世が全分王国の宮宰となる
614年アウトラシア分国王のダゴベルト1世がパリ勅令を出し、各分王国で宮宰が王の政治を補佐することを公に認めて以降、宮宰の力は増大していきました。 アウトラシアでは宮宰職はカロリング家の世襲となっていました。
ネウストリアでは、分国王と宮宰に対して反宮宰派の豪族たちが反乱を起こしていました。この動きを察知したアウトラシアの宮宰ピピン2世はこれに介入し、687年テルトリ―の戦いでネウストリア国王軍を破り、全分王国の宮宰となりました。
宮宰職をめぐる三つ巴の戦い
ピピン2世には嫡子がいましたが早世してしまったため、妻プレクトルードは夫の死後、孫のテウドアウドの摂政となり政治を行いました。 ところがテウドアウドはこの時まだ6歳で、しかも他に強力なライバルが2人いました。 一人はネウストリアとブルングルドで宮宰を務めていたラガンフリド、もう一人はピピン2世の庶子カール・マルテルです。カール・マルテルは彼を警戒するプレクトルードによって、父ピピン2世の死後ケルンに幽閉されました。
ライバルが一人減ったタイミングでラガンフリドが行動を起こします。ラガンフリドは715年コンピエーニュの戦いでプレクトルードを破り、宮宰職を奪い取りますが、幽閉から逃れたカール・マルテルに717年ヴァンシーの戦いと718年ソワソンの戦いで敗れます。 こうしてライバルを倒したカール・マルテルは、717年メロヴィング朝のクロタール4世を擁立し、アウトラシア、ネウストリア、アキテーヌ、ブルグンドを制圧し、フランク王国の支配者となります。
トゥール=ポワティエの間の戦い
この時期、中東ではウマイヤ朝が最初のイスラム帝国を築いていました。ウマイヤ朝は6代目カリフのワリード1世の時にイベリア半島まで進出し、アンダルスをその支配下に置きました。そして今度は隣のアキテーヌに迫っていき、アキテーヌのウード大公はこれを撃退し、自分の娘をウマイヤ朝のアンダルス副知事のヌムザに嫁がせることでイスラム帝国との融和に努めます。
カール・マルテルはこれが気に入りませんでした。なぜなら、イスラム帝国の最終目的は欧州全土の支配であったからです。 そこでカール・マルテルはアキテーヌに侵攻を始めます。ウード大公はカール・マルテルと戦いますが、その戦争の最中、ウマイヤ朝で内紛が起り、ヌムザは殺され、彼の妻、ウード大公の娘はハレムに送られてしまうのでした。その後、アキテーヌはカール・マルテルに没収され、ウード大公はほうほうのていでピレネー山脈まで逃げ延びますが、そこで待ち受けていたのはガーフィキー率いるイスラム軍でした。追い詰められたウード大公はここで宿敵カール・マルテルに援軍を依頼します。カール・マルテルはこれを救国の危機ととらえ、ウードの要請を受けるのでした。
732年秋、両軍はトゥールとポワティエの間クラン川とヴィエンヌ川で合流し、イスラム軍と対峙します。 騎兵という機動力を持つイスラム軍でしたが、カール・マルテルの戦略により、戦闘となった場所は、丘が多く川があり、樹木が視野を遮り、騎兵隊が機動力を発揮できない場所でした。また、イスラム軍は人種・民族・宗教が異なる多民族軍でマネージメントが難しい軍でした。カールはまず、兵站を襲い、これに動揺したイスラム軍は内部から崩れ、そこにガーフィキーの射ち死が災いして軍は総崩れとなり撤退します。
こうしてカール・マルテルはフランク王国最大の危機から国を守り、イスラム教からキリスト教を守った守護神となるのでした。