カペー朝の始まりと十字軍遠征
ヴェルダン条約とメルセン条約で現在のヨーロッパ諸国の基礎ができましたが、分裂したそれぞれの王国は王を中心とする中央集権の国家ではなく、諸侯が治める領国の連合体でした。反抗的な諸侯が隣国の東フランク王を支持することもありました。そして東方ではイスラム勢力がビザンツ帝国に迫っていました。世界情勢が不安定な中、人々は強い王を望むようになります。
今回のタイムラインと目次
カペー朝のはじまり
ノルマン人のロロを臣下とし、代わりにノルマンディ公国を与えることで王国の安定を保ったシャルル3世でしたが、諸侯たちの反抗に遭い、922年廃位に追い込まれました。 この時実際に政治の実権を握っていたのは、1代前の西フランク王ウードの弟、ロベール1世でした。ロベール1世は後に西フランク国王となりましたが、彼の息子ユーグは後は継がず、カロリング朝の王を立て自分は影の支配者に徹しました。
987年、シャルル3世のひ孫にあたるルイ5世が狩猟中に事故で亡くなると、カロリング朝の血が絶え、諸侯たちはユーグの息子、ユーグ・カペーをフランス国王に選出します。
ユーグ・カペーは自身の即位を以ってカペー朝を開きます。こうして以降341年続くカペー朝が誕生することになりますが、この時期から国の称号は西フランクからフランスに変わります。しかし、カペー朝国王の権力基盤はパリを中心とするイル=ド=フランスのみで、フランス領土の大半は伯と呼ばれる諸侯たちに支配されていました。
十字軍遠征
11世紀に入ると、アナトリア半島(現在のトルコのアジア部分)がセルジューク朝イスラム王国に占領され、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は絶対絶命の危機に見舞われます。 窮地に追い込まれた皇帝、アクレシオス1世コムネノスは1095年、それまでキリスト教の教義上対立していたローマ教皇に救援を要請します。時のローマ教皇、ウルバヌス2世はこれを大義としてクレルモン公会議で欧州各国に呼びかけを行い、キリスト教圏にある国の諸侯たちは我先にエルサレム奪還を目指すこととなります。
こうして教皇の呼びかけによって多くの諸侯と騎士たちが1096年軍を構成してエルサレムを目指し、まずはビザンツ帝国の首都、コンスタンチノープルに集結しました。 ところが、彼らを迎えたアレクシオス帝の反応は冷ややかなものでした。理由は、彼らより前に隠者ピエールに引率された4万人からなる民衆十字軍が途中の村々で略奪や虐殺を繰り返し、聞くに堪えない醜聞が皇帝の耳に入っていたからです。このため、正規軍である諸侯・騎士からなる第一回十字軍に対しても信用することができませんでした。アレクシオス帝の見立て通り、正規軍も民衆十字軍と同じく異教徒に対して野蛮な略奪・虐殺・強姦を行っていました。
アレクシオス帝は彼らがコンスタンチノープルに入ることを拒み、代わりに船を与えて早々にシリアに送り出しました。
十字軍に参加できなかったフィリップ1世
異教徒から聖地を奪還するという、中世のキリスト教徒として名誉ある偉業に参加できなかった国王がいました。フランス国王フィリップ1世です。フィリップ1世が締め出された理由は、離婚と結婚を繰り返していたからです。キリスト教の教義では、離婚は認められません。そもそも結婚が無効であれば他の人と結婚できますが、無効の決定権は教皇にありました。
フィリップ1世はフランドル伯の公女ベルトと結婚し、夫婦仲は円満でしたが、フィリップ1世は王妃ベルトの父ロベールに頭が上がらず、不満を持つようになっていました。さらにベルトが中年に入り、太ってきたため、若く美しい貴族の娘に目移りするようになります。
1092年、フィリップ1世は若く美しい人妻のベルトラートとの結婚を画策し始めます。まず、王妃ベルトとの結婚が無効である理由をでっち上げ、教会に認めさせた上離婚し、ベルトラートと強引に結婚してしまうのでした。
このスキャンダルが時の教皇ウルバヌス2世の耳に入り、教皇は1095年のクレルモン公会議でフィリップ1世を破門します。破門されてしまったフィリップ1世は十字軍に参加できず、代わりに王弟のユーグが参加しました。
カノッサの屈辱でもわかるように、キリスト教全盛の中世において破門された国王は、諸侯・騎士・民衆の信用を失い、一気に権威を失っていくものです。