ゲルマン民族大移動とメロヴィング朝の始まり
ローマの属州ではあったものの、ある程度自治が認められていて、政治・経済・文化面すべてに充実していたガリアでしたが、4世紀後半に入ると一変します。東方からフン族に圧迫された大量のゲルマン民族が移動してきたことにより混乱が起き、西ローマ帝国は滅亡しました。そしてローマの跡地にはゲルマン民族の国ができ、ガリアにはフランク王国ができます。
今回のタイムライン
375年~496年までにフランスに起こったことを説明します。
ゲルマン民族の大移動と西ローマ帝国の滅亡
4世紀に入ると、中央アジアから南下してきたフン族(トルコ、モンゴル系の遊牧騎馬民族)に押し出される形でゲルマン民族が大量に流れ込み、ヨーロッパ大陸は大混乱に陥ります。
これが世に言うゲルマン民族の大移動です。
フン族が南下してきた理由は、彼らが住んでいた地域で気候変動が起こり、彼らの食料である家畜に食べさせる草がなくなったため、草のある土地への移動したためと推測されてますが、正確な理由は不明です。度重なる異民族の侵入と武力衝突のため、395年ローマ帝国は東西に分裂してしまいます。
そして、476年、異民族との戦いに疲れ切っていた西ローマ帝国はゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされ、西ローマの跡地にはゲルマン民族の国が乱立することになります。
この中のひとつがフランク王国、のちのフランス・ドイツ・イタリアおよび欧州諸国です。
アッティラ大王とフン族帝国
ローマ帝国が東西に分裂した395年以降、フン族の王族にアッティラが生まれます。
アッティラは文武両方に通じ、強いリーダーシップを兼ね備えていました。弟とともに帝国を統治し、ローマ諸都市からの略奪と貢納金により富を蓄え、勢力を拡大していました。
その力強いカリスマ性は世界各地に広まり、そのカリスマ性に惹かれた西ローマ皇帝の姉ホノリスは好意の印として指輪を送ります。アッティラはこれを求婚の申し出と受け取り、妃の持参金として西ローマの半分を要求して451年ガリアへの侵攻を始めます。
向かうところ敵なしのアッティラでしたが、同年6月カタラウムの戦いでこのローマ・西ゴート連合に大敗します。その後、アッティラは標的をイタリアとコンスタンティノーブルに移しますが、453年若く美しい花嫁イルディコ(東ゲルマン出身)との婚礼の宴で大量の内出血を起こし突然死してしまいます。アッティラの死後、息子たちの間で勢力争いが起こり、フン族帝国はあっという間に崩れ、歴史から姿を消すのでした。(454-455年)
メロヴィング朝の開始
クローヴィス1世の改宗とメロヴィング朝の開始
ゲルマン民族が建てた国のひとつにフランク王国がありました。
481年、フランクの国王クローヴィスは祖父の名前にちなんで王朝をメロヴィング朝と名付け、496年、アタナシウス派に改宗することでローマ教会の後ろ盾を得て名実ともにフランク王国の支配者となります。クローヴィスは王としても武人としても優れていましたが、数多くいるゲルマン諸侯から頭ひとつ飛び抜けたのは、この改宗によってキリスト教の守護者となったことです。
カトリックの総本山であるローマ教会が正当なキリスト教と認めていたのはこのアタナシウス派でした。クローヴィス自身はキリスト教とは無縁でしたが、ブルグント王国から迎えた妻クロティルダの勧めにより改宗を決めたのです。
アナタシウス派とアリウス派
アタナシウス派とアリエス派の違いは、ざっくり言えばイエスと人とするか、神とするか、そしてイエスの母であるマリアの存在を祈る対象として認めるかどうかです。
マリアとイエス母子を人間と考え、神とは異なるものと考えるのがアリウス派で、神がマリアに聖霊を送り、神と聖霊の子がイエスと考える(三位一体)のがアタナシウス派です。
そしてローマ教会が正統としていたのはこのアタナシウス派でした。逆をいえば、それ以外はキリスト教であっても異端とみなされます。