ピピン3世とカール大帝の時代
イスラム勢力から欧州大陸とキリスト教を守ったカール・マルテルは押しも押されぬフランク王国の為政者となりますが、国王に取って変わることはしませんでした。
今回のタイムライン
732年~814年までにフランスに起ったことを語っていきます。
ピピン3世の時代
カロリング朝のはじまり
741年、カール・マルテルが亡くなると、長男のカールマンと次男のピピン(後のピピン3世)が後を継ぎました。カールマンとピピンはキルデリク3世を国王とし、兄と共同でフランク王国を統治しましたが、カールマンが何を思ったか、突然修道院に入り、宮宰職を退いてしまったためピピンが全王国の宮宰となりました。
751年、ピピン3世は時のローマ教皇ザカリアスの後押しを得てフランク国王に即位し、カロリング朝を開きます。しかしこの時まだメロヴィング朝のキルデリク3世が国王として存在していました。
ピピンはキルデリク3世とその息子を出家させ、修道院に送ることでメロヴィング朝にピリオドを打ちます。
ピピンの寄進
フランク国王となったピピンは多くの土地を征服していきました。その中にイタリア地方にあるランゴバルト王国がありました。756年ピピンは国王の座の見返りに、この王国をローマ教会に寄進します。この時教皇はステファヌス3世に代わっていましたが、前教皇の時に、王位の保証の代わりにローマの脅威であるランゴバルド王国を征服することを要求していました。 このためピピンは戦いによって得た土地を教会に寄進しました。
カール大帝の時代
戦に明け暮れた生涯
カールの生涯はほぼ戦争で、一生の間に53回もの遠征を行いました。常に命の危険と隣合わせだったため、国王軍の移動に伴って首都も移動しました。最初はイタリア、次はドイツ北部のザクセン、そしてスペインとカールの快進撃は止むことはありませんでした。
領土が拡大すればするほど、征服地の支配は困難になっていきました。なぜなら征服したザクセン、バイエルンなどゲルマン諸部族たちはカールの勅令よりもそれまで続けてきた自分たちの部族法を優先させからです。このため、カールは領地各地に伯と呼ばれる知事に近い職務を持つ貴族を置いてその土地を治めさせ、絶えず領内を移動し、伯たちと連携を取ることで王国を統治していました。
カールの戴冠
800年11月、カールはクリスマス・ミサに列席するため、ローマに向かいました。このミサに参加している時にローマ教皇レオ3世より、「ローマ皇帝」として戴冠を授けられます。この一年前の799年、教皇レオ3世は対立派に襲われ、カールが彼を匿います。この戴冠はその時の報酬であり、かつ、皇帝と教皇が一体化している東ローマ帝国の教会に対するけん制でした。
カロリングルネサンス
中世の文芸復興
カール大帝はフランク王国が「キリスト教帝国」となることを目指していました。そのために聖職者の資質を高め、教会を発展させることが必要と考え、各地から宮廷に人材を集め、自由学芸と教育に力を入れました。 聖書はラテン語で書かれていたため、ラテン語の教育がさかんになりました。聖職者の学力を上げるため、各地に教会付属の学校ができます。教育者たちは教科書の作成に力を注ぎます。
文化活動は宮廷から修道院にも広がり、各地の修道院でラテン語文献の筆写が行われました。この時期に高価な紙にできるだけ情報量を入れるため、カロリング小字体が生まれました。また、書物の材料は破れやすいパピルスから羊皮紙に代わり、巻物であった書物は紙を束ねて背の部分に穴を開けて紐でつなぐコデックスに変わりました。(画像右)このカロリングルネサンスは、中世ヨーロッパのリベラル・アーツ自由七科(文法学、論理学、修辞学、算術、幾何学、音楽、天文学)を発展させました。
リベラル・アーツ
リベラル・アーツとは、実用的な目的から離れて自由な知的探求にしたがった教養のことです。 ただし、これは教養を広げるということではなく、「文法学」(知る)「論理学」(理解する)「修辞学」(伝える)を基盤として、その他の科目を学ぶことを意味します。
リベラル・アーツの始まりは、古代ギリシャのプラトンが奨励した教育からで、プラトンから共和制ローマ時代の法律家・哲学者だったキケロに伝わり、キケロが「リベラル・アーツ」という名前を付けました。これを4世紀に入って著述家のマルティアヌス・ミンネウス・フェリクス・カペッラによって「自由七科」(文法学、論理学、修辞学が3科に算術、幾何学、音楽、天文学の4科が加わったもの)として体系化され、カロリング・ルネサンスに多くの影響を与えました。