フランク王国の終焉とノルマン人の南下
永遠かと思われたカール大帝の治世は、814年に彼が世を去ることにより迷走を始めます。
迷走の原因は、ゲルマン民族古来から続く分割相続とそれによって引き起こされる身内同士の権力争いでした。
今回のタイムラインと目次
814年~911年までにフランスに起ったことを語っていきます。
カール大帝の崩御後
カール大帝は自分の死後、息子たちの間に争いが起きないよう、あらかじめ相続の取り決めをしていました。たとえば長男カールはフランキア、弟のピピンにはイタリア、下の弟ルイにはアキテーヌを与えるというように….。ところがカールとピピンが早くに亡くなってしまったため、結局のところルイがルイ1世としてフランク帝国を継承することになりました。これでしばらくの間は平和になるのですが、ルイ1世が後妻を迎え、末弟のシャルルが生まれたあたりから雲行きが怪しくなってきます。
ルイ1世の息子3人が父王から相続する領土は既に決まっていました。ところが4男シャルルが生まれたため、ルイ1世は長男ロタールに譲るはずだった領土の一部をシャルルに与えてしまいます。ロタールはしぶしぶこれに承諾するのですが、少しずつ不満が募り、遂には反乱を起こして父王を廃位に追い込み、その上ロタール自身がロタール1世としてフランク王となってしまうのでした。
ヴェルダン条約
838年、兄弟の一人ピピン、840年にはルイ1世が亡くなると、生き残ったルイ2世と4男のシャルル2世がタックを組み、ロタール1世に反旗をひるがえします。この兄弟同士の骨肉の争いがしばらく続いた後、843年ヴェルダン条約をもって帝国は東フランク王国、西フランク王国、中フランク王国の3つに分割され、カール大帝が築いたフランク帝国は解体されました。
ヴェルダン条約後は、ロタール1世がフランク王国の帝位と中部フランク・北イタリアを支配し、ルートヴィヒ2世が東フランク王国、4男のシャルル2世は西フランクを継承しました。
メルセン条約
これで一件落着かと思いきや、855年にロタール1世が亡くなると、彼の息子とルートヴィヒ2世、シャルル2世の間で争いが起こり、この争いは15年後の870年、メルセン条約でようやく終結します。
メルセン条約では、北イタリアを除く中部フランクが東西フランクに吸収され、結果としてフランスの前身である西フランク王国とドイツの前身である東フランク王国ができました。
現在のテーマはフランス史であるため、今後は西フランク王国について語っていきます。
ノルマン人のロロ、ノルマンディ公となる
9世紀になると地球は暖かくなり、ノルマン人たちが船で海を渡って大陸に渡ることが多くなります。彼らの渡航の目的は当初、大陸の人たちとの交易でした。
しかしこれが徐々に略奪、侵攻に変わっていきます。ちょうどこの頃、フランク王国は分割相続による内乱が続き、不安定な状態に置かれていました。そこを火事場泥棒よろしくノルマン人たちがセーヌ川やロワール川をさかのぼって周辺を荒らしまわり、西フランクの海岸地帯は手がつけられない状態に陥ります。
この状態を危惧した西フランク王シャルル3世は、911年ノルマン人の首領ロロにキリスト教の改宗と臣下に下りフランス海岸を侵略から守ることを条件にセーヌ河畔の定住を認めます。これがノルマンディー公国となります。シャルル3世の王女ジゼルはロロに嫁ぎ、ノルマン人の海岸荒らしは収まるのですが、ノルマンディ公ロベール1世となったロロは、その後しばらくは大人しくしていたものの、次第に近隣諸国の領土を侵略し、勢力を伸ばすようになります。
東フランク王国その後
870年のメルセン条約で中部フランクの半分を吸収した東フランク王国はその後、カール大帝から始まったカロリング帝国とは異なる独自の道を歩んでいきます。
ルートヴィヒ1世からオットー1世まで
東フランク王国のルートヴィヒ1世の死後、王国は息子たちに分割相続され、三男のカール3世の時に再統一されます。しかしカール3世は消極的な性格だったため、諸侯たちの反乱に遭い、結局のところ甥のアルヌルフ、次いでその息子のルートヴィヒ4世が東フランク国王となります。ところが911年にルートヴィヒ4世が亡くなると、有力諸侯たちは次の王をカロリング朝から選ぶことはせず、自分たちの中から王を選ぶようになります。こうして選ばれたのがコンラート1世です。
しかし王国は必ずしも一枚岩ではありませんでした。それが証拠にコンラート1世の次は彼に反乱を起こしていたザクセン公ハインリヒ1世が国王に選出されます。ハインリヒ1世は分割相続の慣例を廃止し、外敵の侵入を防ぎ、諸侯たちをまとめ、より強固な国家と王権を確立していきます。こうしたお膳立てが整った中、息子のオットー1世が王国を継ぎ、962年ローマ皇帝として戴冠します。
カノッサの屈辱
オットー1世の6代後の皇帝にはザーリア家のハインリヒ4世が就きます。このハインリヒ4世は我がままで頑固な性格だったと言われていますが、それまで教会の聖域であった聖職叙任権を自国領で行使するようになります。これに腹を立てた時の教皇グレゴリウス7世はハインリヒ4世を破門にします。
キリスト教の権威が強固で絶対であったこの時代、破門されるというのは絶対絶命を意味します。
また、この動きに乗じて諸侯たちがハインリヒ4世に反抗したため、旗色が悪くなり1077年、ハインリヒ4世はグレゴリウス7世のいるカノッサ城に向かい許しを請います。 1月の雪が降る中、3日間裸足で断食と祈りを続け、遂にグレゴリウス7世は彼を許します。
これが世に言う、カノッサの屈辱です。
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