中世を騒がせた王妃アリエノール・ダキテーヌ②
前回の記事で、アリエノール・ダキテーヌがフランス王妃だった時代について語りました。
今回はイングランド王妃時代について語ります。フランスとイングランドという敵対する国の王妃だったのは「これ如何に?」と感じられることでしょう。これにはアリエノール自身の性格と、国家より諸侯の領国統治が優先されていた時代背景がありました。
目次
これまでのストーリー
イングランド王妃時代
この時代のイングランド
1066年のノルマン・コンクエスト以降、イングランドはフランス貴族ノルマンディー公の所領でした。ノルマン公を兼ねたウィリアム1世がイングランド王としてノルマン朝を始めましたが、3代目のヘンリー1世の時代には嫡子の男子がおらず、王女マチルダが継承者とされました。彼女はフランスの大貴族アンジュー伯ジョフロワ・ダンジュ―と結婚して後ろ盾を確保しました。なお、ジョフロワとの結婚はマチルダにとっては二度目で、彼女は12歳の時に神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と結婚していました。(その後死別)
しかし事は思わぬ方向に動きます。マチルダがイングランド女王になることに反感を持った諸侯がヘンリー1世の甥にあたるスティーブンを担ぎ出し、イングランド王位はスティーブンに奪われてしまったのです。
マチルダの息子ヘンリーとアリエノールの結婚
1151年8月、ジョフロワは自分の領土のひとつであるノルマンディ公国を息子のヘンリーに継承させるにあたって国王の承認を得るため、息子を連れてパリの宮廷を訪れました。
ジョフロワは同時に心の中にしまっておいた国王への苦情を訴えました。下手をすれば息子のノルマンディー公承認が飛ぶかもしれない危機にあって、彼は堂々と国王に物申したのです。
彼の勇気ある堂々とした態度と自由を愛する姿勢にアリエノールは共感し、彼の血を色濃く継いでいる息子ヘンリーにも魅力を感じました。
この時の出会いがきっかけでアリエノールとジョフロワ・ヘンリー親子は、イングランド・フランスに自由な国を築いていくという壮大な夢を共有するようになり、この夢はアリエノールとヘンリーの結婚という形で現実化のスタートを切りました。
1152年の5月、ルイとの離婚から2か月というあまりにも早すぎる展開でした。
平和も波乱も夫とともに…
結婚後すぐ、この再婚に国の危機を感じたルイ7世率いるフランス国王軍にノルマンディが攻撃されました。ヘンリーはすぐに攻勢し和解に落ち着かせると、今度はスティーブンから王位を取り返すべくイングランドに渡ります。この間、アリエノールはアンジェ公国で夫の留守を守りながら、アンジェの宮廷を彼女の才知で彩りました。
1154年、ヘンリーは見事イングランド王位を奪い返し、夫妻はロンドンに渡ります。その後、ヘンリー2世として戴冠し、アリエノールと協力して広大な領地の統治に励みます。
ヘンリーがノルマンディーに行っている間、アリエノールはイングランドで留守を守り、ヘンリーがイングランドにいる間、アリエノールはアンジューやボルドーを管理するといった具合に…。
二人の間には5男2女の王子と王女が生まれ、アリエノールは王妃としても女としても、充分咲き誇り、満ち足りた日々を送るのでした。
アンジュー帝国
アリエノールとヘンリーが結婚することによって拡大した領土は、イングランド王国、アイルランド太守領、ノルマンディー、ガスコーニュ、アキテーヌの各公国、アンジュー、ポワトゥー、メーヌ、トゥレーヌ、サントンジュ、ラ・マルシュ、ペリゴール、リモージュ、ナント、ケルシーの各伯領から成り立ち、範囲はピレネー山脈から現在のアイルランド共和国に至りました。後にこの広大な領土は「アンジュー帝国」と呼ばれました。
太守領というのは太守が治める領土で、公国というのは公の称号を持つ君主が統治する小国、伯領というのは国が任命した地方行政を委ねられた伯が統治する領地になります。
不和の種 愛人ロザモンド
仲睦まじい夫婦であり、理想を分かち合う同志でもあったアリエノールとヘンリー2世でしたが、結婚後14年目あたりから二人の間に亀裂が入ります。ヘンリーが若く美しいロザモンド・クリフォードを身近に置いて寵愛するようになったのです。ロザモンドはイングランドの小領主の娘で、アリエノールが末息子ジョンを妊娠・出産中に二人の関係が始まりました。
ヘンリーがロザモンドを寵愛した時期は、鎮めても鎮めても反抗する領土内の諸侯たちとの戦いに明け暮れ、臣下として友として長いこと自分を支えてくれたトーマス・ベケット大司教との対立で心も体も疲れ切っていました。心身とももきつい時には、強さより優しさに癒されたいもの。この時期のヘンリーはまさにこのような心境にあったのでしょう。才気溢れる年上の王妃より、自分の愛だけを頼りとする儚げなロザモンドを必要としました。
アリエノール、故郷のアキテーヌへ
ヘンリーの心変わりはアリエノールを深く傷つけました。彼女はこれまでにヘンリーに注いだ愛情と同じ深さで今度は彼を憎むようになります。子どもたちを連れで別の宮殿に移り住み、ヘンリーとは別居するのでした。それでもヘンリーは楽観していました。
この時代、王や貴族が愛人を持つことは一般的なことでしたし、仮にアリエノールがヘンリーと離婚したとしても次に嫁ぐ相手はもういません。その相手はアリエノールの持つ広大な領土ゆえに、イングランド王とフランス王両方の敵となるからです。
アキテーヌで諸侯の反乱が相次ぐと、この地の諸侯たちが敬愛するアリエノールに統治を任せることを決めました。アリエノールはこの申し出を喜んで受け、1167年つらいイングランドの生活から抜け出し故郷に戻ります。
彼女はポワティエの宮廷に多くの文化人を呼び寄せ、誰もが羨む華やかな貴族サロンを作り上げていきます。彼女はきっとこう思っていたことでしょう。
「私の愛したヘンリーはもういない。それなら私はこのアキテーヌで私らしい人生を生きて行こう。」
ヘンリー2世の生前贈与
アリエノールがポワチエの宮廷で第二の人生を開始させた2年後の1169年、ヘンリーは36才でしたが、自身の身に万が一のことがあった場合に息子たちの間に領土争いが生じないよう、早めにフランス領土の相続を取り決めました。イングランド王太子である長男若アンリにはアンジューとメーヌを、次男リチャードにはポワトーとアキテーヌ、三男ジョフロワには政略結婚によりブルターニュを与えました(モンミライユの会見)。
末息子ジョンはこの時まだ4才と幼かったため相続枠に入ることができませんでした。4才という年齢がなぜ相続を妨げたかというと、幼い相続人が大きな利権を手にしてしまうと、周囲の側近が代わりに力を持ってしまうからです。
こうしてかつて深く愛した夫とは別居することになってしまったものの、愛する息子たちには将来が約束され、ポワチエの宮廷は華やぎ、アリエノールのアキテーヌ生活は順風満帆でした。
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