ロマネスク様式とは、10世紀末~12世紀にかけて欧州各地に建てられた宗教施設に用いられたデザイン様式のことです。ローマ建築のエッセンスと地域の独創性と歴史背景が融合した「祈りの空間」、それがロマネスクです。
ロマネスクって「ローマ風」って意味だよね。欧州は昔ローマの属州だったもんね。
もしかしてローマを懐かしんでたのかな?
ちょっと違うな。
確かにローマの属州だったけど懐古してたわけじゃなく、
ローマ様式をうまく使って時代にあった生み出したって感じかな。
ひとことでは言い表せないから順を追って説明していくよ。
ロマネスクの始まり
始まりはキリスト教
ロマネスク様式は、紀元前BC52年カエサルのガリア征服したことに始まります。属州としてパクス・ロマーナ(ローマによる平和)を享受する一方でガリア人たちは独自の文化を生み出していきました。
歴史が下って支配者がローマからゲルマンに変わり、フランク王国のクローヴィス1世が正統派キリスト教に改宗し、カロリング朝シャルル・マーニュ(カール大帝)がキリスト教の守護者になると、各地に多くの修道院や教会が建てられました。
このあたりのことは「ピピン3世とシャルル・マーニュの時代」で書いてるよ。
教会は新生児の洗礼や結婚、ミサなどの地域のマネージメントを行うとともに、聖書に記された神の言葉を伝え、人々の精神を支える役割を持っていました。そしてこの役割を担う聖職者を教育する場として、修道院がありました。
庶民は教会に行かないと聖書読めなかったってこと?
この時期、印刷技術はないし、聖書はラテン語だし、そもそも庶民は文字読めないからね。
コンポステーラ巡礼がもたらす修道院ラッシュ
12世紀の巡礼ラッシュに伴い、ますます修道院の需要は増え、修道院の造りはひっきりなしに訪れる巡礼者を収容するため大規模な造りになり、巡礼路にある「神の家」としての風格を持つ洗練された装飾が施されるようになっていきました。
スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラは、12使徒の一人の聖ヤコブの遺骸が埋葬された地と言われており、聖人の聖遺物は奇跡を起こすと信じられていました。この奇跡を享受すべく、欧州中から多くの巡礼者がコンポステーラを訪れました。また、巡礼路の途中にある修道院にも足を運び、国王と諸侯も巡礼路を整備し、巡礼者を保護し巡礼を奨励しました。
巡礼ラッシュの背景には11世紀から始まった聖地奪還、十字軍遠征があるんだよね。
でもさ、聖地エルサレムとコンポステーラは逆方向だよ。
徒歩移動のこの時期、エルサレムまで行くのは遠すぎるし、教皇がいるローマも遠いよね。コンポステーラは、エルサレムやローマに行けない人たちの受け皿巡礼地になったんだよ。
なるほど、そういうわけね。
ところでこの巡礼マップの旗、EUシンボルとホタテが合体してるね。
いいとこに気が付いたね。
ホタテ貝には「再生・豊穣」の意味があって、これを持って巡礼すると訪れた場所に今までの自分が置かれ、目的地に着いた時点で新しい自分に生まれ変わると信じられていたんだよ。
それと聖ヤコブが乗っていた舟の船底にホタテ貝がぎっしりついていたとも言われているからホタテは巡礼にはかかせないアイコンなんだ。
ロマネスクの特長
バジリカの採用と礼拝順路の工夫
人々が集まる公共の場として、それまで使われていたのはバシリカと呼ばれる長方形の空間様式がありました。多くの人を収容するには、バシリカが用いられました。
バシリカは、古代ローマで用いられた商業取引や裁判を行うための長方形の公共建築の様式です。 短辺に入口があり、中に入ると中央に広い身廊が広がり奥まで続いています。その左右に側廊があり、奥突き当りにはアプスと呼ばれる場所があり、ここでは必要に応じて儀式が行われていました。
巡礼ラッシュによる混雑を防ぐため、教会堂の奥には聖遺物など祈りの対象となるものを配置し、巡礼者は正面入り口の右側から入り、側廊を通ってアプス周辺で礼拝し、反対側の側廊を通って出口に向かいます。
こうすることで身廊で祈りを捧げる人々を妨げることなく、大勢の巡礼者を誘導することができるのです。
神の家を目指す造りに改良
巡礼者の収容場所としてのバジリカにはいくつか問題がありました。
まず、この時期、大半の建造物は木造であったことです。木造の場合、火災があった時に全焼してしまいます。
「神の場所」は「永遠」でなければいけません。そこで木造から石造りに変わります。
石造りの天井の奥行を大きく取るため、古代ローマ建築で用いられた半円アーチのデザイン(かまぼこ型)が採用されました。半円アーチは天井のみならず、あらゆる箇所に使われます。半円アーチが施された外観は古代ローマのコロッセウムを連想させます。これが「ローマ風=ロマネスク」と呼ばれる所以です。
そして、天井はできるだけ天に近くするため高くします。しかし、身廊を高くすると不安定になるため、両側から支える必要があり、このため身廊の両側には必ず側廊を付けました。
これで耐久性は確保できました。しかし、重たい石の天井を支えるには、負荷がかかる壁を厚くし、窓は小さくする必要があります。このため、採光が乏しくなり、「神の家」は昼間でも暗い空間になってしまいました。
当時の建築家たちは、耐久性を保持しながら採光を改善する難題に取り組みます。そして、生まれたのが「交差ヴォールト」です。交差ヴォールトは、かまぼこを交差させ、天井の重量を4本の柱にかかるようにします。こうすると負荷は柱に流れ、側面の面積は広くなり、その分広い窓を作ることができます。
こうして「神の家」は天に近い、光のある空間となったわけです。
ロマネスク様式のポイント
半円アーチ
古代ローマ様式の半円アーチが随所に使われている。
交差ヴォールト
2つのヴォールトを直角に交差させることにより、屋根に荷重を壁ではなく柱に流すことができる。
これにより従来より窓を大きく取ることができる。
ピア
屋根の荷重を柱で支えるため、柱は太くなる。
地域多様性
半円アーチ、交差ヴォールト、ピアという要素は共通ですが、地域によってデザイン・装飾が異なる。
巡礼路にあるフランスロマネスク
フランスからサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう巡礼ルートは4つあり、巡礼路のところどころに修道院や聖堂、教会があります。
4つの巡礼ルート
① トゥールの道
1つ目のルートはパリを始点としてトゥール、ポワティエ、ボルドー、オスタバを通ってスペインに入るトゥールの道です。
② リモージュの道
2つ目のルートはヴェズレーを始点とし、ブルージュ、リモージュ、同じくオスタバを通ってスペインに入るリモージュの道です。
③ル・ピュイの道
3つ目のルートはル・ピュイを始点とし、コンク、モワサック、オスタバを通ってコンポステーラに向かうル・ピュイの道です。
④トゥールーズの道
4つ目のルートはアルルを始点とし、モンペリエ、トゥールーズ、オロロンを通ってコンポステーラに向かうトゥールズの道です。
ノートルダム・ラ・グランド教会 Notre-Dame la Grande
どの巡礼ルートにも数多くの教会と修道院がありますが、トゥールの道①からはポワティエにあるノートルダム・ラ・グランド教会をご紹介します。
ノートルダム・ラ・グランドは、大学を兼ね備えた教会で、ファサード(正面玄関)に施されたロマネスク様式の彫刻と松かさを連想させる先塔が印象的です。この聖堂は建設された11世紀当初は大学と教会の役割を持っており、十字軍遠征を始めたウルバヌス2世に献上されました。時代が下って宗教改革が始まると、ユグノーの偶像破壊によってほとんどの彫刻が破壊されましたが、1840年に歴史的建造物として登録されたのをきっかけに再建されました。
この教会の見どころは何といってもファサードの彫刻と松かさ先塔、そして東方の息吹を感じるビザンチン美術で彩られたロマネスクの教会堂内部です。
参考動画:futurs travaux pour Notre-Dame-la-Grande
サント・マドレーヌ大聖堂 Basilique Sainte-Madelaine
リモージュの道②からは、スタート地点、ヴェズレーにあるサント・マドレーヌ大聖堂をご紹介します。
サント・マドレーヌ大聖堂は、9世紀に建てられ、イエスの復活を最初に目撃したマグダラのマリアの聖遺物をこの聖堂にあり、数々の奇跡を起こしたと伝えられ、コンポステーラ巡礼路の始点となり多くの巡礼者が訪れるようになりました。ところが13世紀にプロヴァンズでマグダラのマリアの正式な聖遺物が見つかると、ここを訪れる巡礼者は減り、18世紀に起こったフランス革命による略奪と破壊を受け荒廃していきました。しかし、これを残念に思った劇作家メリメ(カルメンの作家)によって再建されました。(1840-1874)
この聖堂のティンパヌム(玄関の上部の半円部分)にある「聖霊降臨」がロマネスク彫刻の傑作として有名ですが、教会堂内部のロマネスクとゴシックの優美な融合が実に見事です。
参考動画:感動の世界遺産 フランス ヴェズレーの教会と丘 サント・マドレーヌ聖堂 Vèzelay,Church and Hill
ル・ピュイの道 -サント・フォワ修道院 Abbatiale Sainte-Foy de Conques
ル・ピュイの道では、コンクにあるサント・フォワ修道院と教会をご紹介します。
時が止まったかのように中世がそのまま再現され、今もそこで人々が生活を営むコンクの村。そこには南フランスのロマネスク芸術の傑作と言われるサント・フォワ修道院があります。村そのものがカロリング朝から今に残るフランク王国の面影を伝えています。宗教戦争時代に破壊されましたが、民間の教会が力を合わせて復興し、フランス革命の偶像破壊からこの修道院を救っています。
この修道院にある聖フォワの聖遺物はオリエント文化を連想させる美しい人形マスクに収められています。フォワはローマの属州時代のアジャンで役員の娘として生まれ、キリスト教を信仰したために捕らえられ処刑されました。
時代が下った886年、コンクの修道士がフォワの聖遺物をコンクの自分の教会に移しました。以降、コンクではさまざまな奇跡が起こり、それ以来、この修道院と村を訪れる巡礼者が絶えなくなりました。
参考動画:Conques, Abbatiale Sainte-Foy
サン・トロフィーム大聖堂 Cathédrale Saint-Trophime d’Arles
トゥールズの道では、アルルのサン・トロフィーム大聖堂をご紹介します。
ファサードを始めとして美しい彫刻が随所に施され、教会堂の本堂部分はロマネスク、内陣はゴシック、回廊の北側と東側はロマネスク、南側と西側はゴシックと異なる2つの様式が一体となっています。ここには聖人トロフィムスの聖遺物が安置されています。
ファサードと回廊の柱には、様々な美しい彫刻に彩られており、その中にはイエスの生涯が描かれたものがあります。言葉が通じないゲルマン民族になんとかしてイエスの生涯を伝えようとした当時の修道士たちの熱意が伝わってきます。
参考リンク:感動の世界遺産 フランス/アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式建造物群/ローマ劇場
うわー。ロマネスクって幻想的で美しい様式だったんだね。
今まではガリアがローマの属州だったから単にその名残の様式だと思ってたよ。
建築やアートの背後にはいつも必然性があるんだよ。背景にその時々の情勢や政治が思想があって、そこから文化が生まれるんだ。ロマネスクの場合はキリスト教と巡礼ラッシュだね。